上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第六章  上総武田氏と上総金田氏 その3
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第一章 第二章 第三章 第四章 第七章 第八章

 
  金田常信の代に金田姓に復した歴史的背景を知るために、第五章で享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響を及ぼしたかについて検証してきた。
しかし、金田姓に復するのに直接影響を及ぼした上総武田氏について検証することで、千葉大系図や金田系図にも記されなかった隠された事実を解明しなければ、今日上総金田氏の子孫たちが金田姓を名乗ることになった真実を知ることはできないのである。
上総武田氏は上総金田氏と親密な庁南武田氏と後に敵対関係になる真里谷武田氏に分かれて上総国を統治した。
第六章では上総武田氏を詳しく扱うことで上総金田氏との関連性を検証することにする。


蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                    (三河金田氏祖) 
 
 (7)上総金田氏(常信~正信)について考察

武田信長の上総入部の後に上総金田氏のことを述べるのは唐突な感じがするかもしれませんが、実は上総金田氏の家史研究にとって最も重要な部分なのであります。
千葉大系図によれば文明年中(1469年~1487年)に千葉介の命令で安房方面で里見・安西と戦い戦功をあげたので、千葉介より金田姓に復することを許されたと記されている。更に千葉大系図には金田正興が大永年中(1521年~1527年)三州に住むと記されている。
文明年中から大永年中までの50年前後の間に、蕪木姓から金田姓に変わり金田正信の代に大事件が起こり金田正興は三河国に落ち延びたことを考察すると多くの疑問が浮かんでくる。
  • 50年間に5代も当主が代わるのは異常な事態である。
  • 常信・信吉・正信については何らかの記述があるが、信定・宗信については何も記述がない。
  • 金田信吉・正信が勝見城主であり、金田正信の娘が千葉介昌胤に嫁ぎ利胤・胤富の母になっていることから、金田正興が下総国に行かず三河国に落ち延びたのは、特別な出来事があったと考えられる。
  • 蕪木氏の時は名前に常の字を用いたが、常信以降は信の字を用いている。
  • 当時上総国は上総武田氏が支配下にあり、安房国の里見氏と戦うには下総国の千葉宗家単独ではありえない。
  • 蕪木氏の時は歴代の多くは孫八郎と名乗っているが、金田氏に改姓してから刑部常信・上総信定・式部少輔宗信・左衛門大夫信吉・左衛門大夫正信と官位が与えられている。
以上のことから、金田氏に改姓後に起きた出来事は千葉宗家・上総武田氏にとっても重要なことではあったが、何らかの事情で封印されてしまったのではないだろうか。
江戸時代、寛政重修諸家譜編集のため旗本金田氏諸家は先祖書の中に出てくる上記の出来事の真相を知ることが出来なかったので、蕪木氏について蕪木鄕に歴代が住んだことを記すことで曖昧な表記にした。(これにより蕪木常泰以降も金田姓も名乗っていたような印象を与えていた。)
歴史的資料を今日のように図書館等で閲覧できなかった当時としては金田姓になった事情は解明出来なかったが、インターネットの普及した今日では上総武田氏を研究することで解明することが出来た。先祖の名誉のためにも上総武田氏と上総金田氏の関わり合いについてこれから述べていきたい。



 (8)守護大名と上総介

武田信長の上総入部後、上総国の支配権を確立した時期は不明だが、寛正元年には(1460年)将軍足利義政が武田信長に対し古河公方派から幕府派への鞍替えを求める御内書が残っていることから、この時期には支配権を確立していたと思われる。
幕府が武田信長に対し工作をするのには、武田信長に次のような弱点があることを把握していたからである。
  • 武田信長は甲斐源氏出身であるが上総国においては余所者である。
  • 上総国に一族や長年の家来はいない。
  • 守護大名の補任権は幕府にあるため、古河公方派の武田信長は守護大名になれない。
  • 古河公方足利成氏の代理として上総国の支配権を確保したのであって、武田信長配下となっている国人や御料所は古河公方から預かっている立場であった。
  • 武田信長い敵対した領主から獲得した所領においても、領民を心服させるまでに時間がかかる。
  • 武田信長は多くの戦った名将であり、同じ古河公方派の下総国千葉宗家の支援を受け上総国の支配権を確保できたが、今後も武田氏として存続する為には何らかの権力基盤が必要であった。

幕府は武田信長が幕府派に転じれば、正式に上総守護に補任することや御料所を含め多くの所領を武田信長所領として安堵することを暗に提示していたはずである。応仁の乱で幕府が西軍であった朝倉孝景を越前守護に補任することで東軍に寝返らせたことからも明白である。
しかし、武田信長は幕府からの誘惑に惑わされることはなかった。


古河公方派として生きる道を選んだ武田信長であったが、上総国の支配権を今後も武田氏が持ち続けるためには何らかの権力基盤が必要であることに変わりなかった。そして、武田信長が古河公方足利成氏・下総国の千葉宗家と協議した結果、嫡子武田信高が上総国の支配者である証として上総介を権力基盤としたのであった。律令制が崩壊した室町時代において実質的意味が無くなり武士の身分を明確化するための官位として存在していたが、上総国において上総介は特別な官位なのであった。
平安時代末期、上総国は桓武平氏の流れをくむ房総平氏が上総介・上総権介として補任され上総広常にいたった。
上総広常は源頼朝挙兵に功績を挙げたが、源頼朝によって暗殺されてしまった。
その後、千葉常胤の孫である千葉常秀が上総介の地位を得て、一般には上総広常の継承者と見られている。そのため、上総常秀とも呼ばれている。
更にその子千葉秀胤も上総介の地位を得て上総秀胤と呼ばれたが、宝治合戦に巻き込まれ滅亡してしまった。
宝治合戦後、長い年月が経ったが武田信高が上総広常・上総秀胤の継承者となることは大変意義深いことなのである。
伊勢新九郎長氏が北条早雲と改姓したのは、伊豆国・相模国の正当な支配者として認められるために北条氏を継承したと言われている。※
上総武田氏が外来の侵略者でなく上総国の正当な支配者として認められる為に上総介の地位につき、一般に上総氏と呼ばれる上総広常などの継承をしようとしたことは小田原北条氏と同じ理由であった。

※伊勢氏から北条氏に改めたのは北条早雲が没した後、大永3年頃に北条氏綱の代になってからのこと。
 (9)蕪木常信の金田姓への改姓

伊勢新九郎長氏が北条早雲と改姓したことを例として述べたが、武田氏が上総介の地位につき上総氏の継承者になるには大きな問題があった。伊勢氏も北条氏も同じ平氏であるのに対し、武田氏は甲斐源氏の名門であり、源氏であることが足かせとなった。
ここに下総国の千葉宗家の協力を仰ぐことになった。

上総広常の子孫は断絶してしまったが、弟の金田頼次の子孫が鏑木氏として残っていることが注目されるようになった。
金田頼次の孫金田成常の代に宝治合戦に巻きこまれ所領を失うが、成常の子胤泰が叔父鏑木胤定の養子となり鏑木氏の家督を継承していた。
千葉大系図によれば鏑木胤泰は長男鏑木家胤を鏑木城主(現在の旭市鏑木)とし、その子孫は千葉宗家の重臣として代々続いた。
鏑木胤泰は次男常泰を上総国にある蕪木氏城主(現在の山武山武市)として新たに蕪木氏を起こし、上総氏の血脈と伝統を継がせた。



蕪木城と鏑木城(栗山川の西側が上総国・東側が下総国)

千葉大系図では「蕪木常信が千葉介の催促で安房方面で里見・安西と戦い戦功をあげたので、千葉介より金田姓に復することを許された」と記されているが、実際は上総武田氏からの要請を受けた千葉介からの金田姓に復す命令だったと考えられる。寛政重修諸家譜で金田常信が上総国長柄郡岩井城に住すと記されており、金田常信の居城は現在の睦沢町岩井にあったとされている岩井城(正確な場所は不明)だったと考えられる。
蕪木城から岩井城に移ったのは「金田常信が上総広常以来の上総氏の血脈と伝統の継承者」であることを上総武田氏が強調したかったからである。
下の地図を見ていただくと、上総広常の居城と言われている高藤山城(千葉大系図では柳沢城)のすぐ西側に現在の睦沢町岩井は位置していることからも明瞭である。



寛政重修諸家譜に書かれている金田常信の居城とされる岩井城は高藤山城に近い場所に位置する
武田信長は隠居し嫡子武田信高が上総武田氏当主となる。武田信高は更に上総氏の流れをくむ金田常信から金田氏当主を譲り受け、武田氏の当主が上総氏の血脈と伝統兼ねることにより、上総国の正当な支配者であることを国人たちに誇示することができた。
庁南武田氏の当主が武田上総介○○と署名せず、上総介○○と署名したのはこのような事情からである。
当主の座を武田信高に譲った金田常信は、官位が刑部となっていることから上総武田氏からそれなりに優遇されたと考えられる。

このような事情をわきまえて金田常信以降の5代について次のような見解を述べることにする。

 金田常信  上総国岩井城主  刑部  上総広常の弟金田頼次の子孫。千葉介の重臣鏑木氏の一族である蕪木氏当主だが千葉介の命令で金田姓に改姓。上総氏の血脈と伝統を継いできた金田氏当主を武田信高に譲ることで、武田氏が上総国支配のおける正当性を主張することに貢献。
 金田信定  (実は武田信高)  上総  武田信長の嫡男武田信高。上総武田氏系図(真里谷武田氏)には武田信高を武田信定と書かれており、信高の別名が信定と判明。官位の上総は上総介を指す。
ここでは便宜上金田信定と書いたが、庁南武田氏の当主は上総介と自称しており、上総介信高もしくは上総介信定と呼ぶのがふさわしい。武田氏当主であり金田氏当主もあることから、それぞれを省略して上総介のみの呼称にしたと考えられる。そのため金田信定で呼ばれることは絶対に無かった。(下記の上総介宗信も同じ理由で金田宗信と呼ばれることは絶対に無かった)
 金田宗信  (実は武田宗信)  式部少輔  庁南武田氏の当主武田宗信。上総介信高以降、上総武田氏は庁南武田氏と真里谷武田氏に分かれてしまう。上総介宗信は庁南武田氏の当主となるが、真里谷武田氏とは良好な関係でなく下総国千葉宗家との関係を重視する。
嫡子吉信に千葉介勝胤の娘が嫁ぐなど、千葉介との縁戚関係を結んだ。
上総介として上総国での正当な支配者として定着したと判断し、金田常信の直系である金田信吉に金田氏当主を譲り、鎌倉時代金田康常・成常の代に金田氏の居城であった勝見城をを築城(当時は廃城になっていたと考えられる)し、金田信吉を城主とした。
嫡子吉信の名前を逆にすると信吉となることから、上総介宗信がいかに金田信吉を重視していたかがわかる。
庁南城に妙見社を設けるなど千葉介と上総介が固い絆で結ばれていることを証明している。
 金田信吉  上総国勝見城主  左衛門大夫  金田常信の直系とみられる。しかし、上総介宗信から金田氏に縁のある勝見城主を任せられるなど特別な待遇を受けている。後に旗本金田氏諸家の先祖書では勝見城主金田左衛門太夫信吉を中興の祖として扱われている。
 金田正信  上総国勝見城主  左衛門大夫  金田信吉の嫡子。勝見城主。三河金田氏の祖金田正興の兄。
娘が千葉介昌胤に嫁ぎ、後の千葉介利胤・千葉介胤富の母になっていることから、上総介宗信の娘婿であったと考えられる。
庁南武田氏と本佐倉城の千葉宗家との同盟関係を上総介宗信とともに築き上げた。
それに反発する真里谷武田氏が安房国の里見氏と同盟し、後の小弓公方足利義明を擁立して庁南武田氏を攻めることになる。庁南武田氏は敗北し金田正信は自害又は戦死したと考えられる。弟の金田正興は三河国へ追放され上総金田氏は終焉を迎える。

このように金田常信が金田姓に改姓後劇的なことが起きたにも関わらず、後世に上総金田氏に起きたことは伝わることはなかった。大きな要因を次に掲げることにする。
  • 上総金田氏の子孫おいては、上総武田氏が上総金田氏の当主となった複雑な事情を説明しにくいので先祖書に金田信吉以前の詳細を省いて子孫に伝えられた。
  • 千葉宗家においては、蕪木氏が金田姓に改姓をしたことを千葉大系図に記したが、後に上総金田氏終焉の原因となる安房国の里見氏との争いを金田姓への改姓の口実にした。すなわち{蕪木常信が里見・安西と戦い戦功をあげたので、千葉介より金田姓に復することを許された}と千葉大系図に記されたのであった。
  • 上総武田氏の関係が複雑すぎるため諸事情を省略するため、信定・宗信については名前以外何も記載されていない。 本来なら上総介信高について信高と記すべきなのに、真里谷武田氏が和泉守信定と系図に記載した信定を記しているのは、千葉大系図で上総武田氏と上総金田氏の関わりを隠蔽する意図もあったのではないかと感じられる
  • 上総武田氏において上総介信高が没すると上総介をめぐって、上総武田氏にお家騒動が発生し庁南武田氏と真里谷武田氏に分裂した。真里谷武田氏の菩提寺真如寺に残っている上総武田氏系図其二では、上総介信高が①和泉守信定②真里谷城主などと書き換えられるなど、真里谷武田氏では上総介の地位や上総金田氏に対して排除する意向が強かった。庁南武田氏では優遇された上総金田氏ではあったが、後に小弓公方足利義明を擁した真里谷武田氏は、味方にした里見氏に庁南城を攻撃させ上総金田氏を滅亡させたのであった。(三河国に追放された金田正興が三河金田氏を起こす)

 
 
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